「英語の達人」は、辞書をこう使う



辞書はあくまでも、言葉のニュアンスについてヒントをもらうもの

◆榊原奈津子さん◆


「通訳者は殆ど全員といって言いほど、これです」ベテランの逐次通訳者で、都内にある通訳者養成学校アイ・エス・エスの講師も務める榊原奈津子さんが見せてくれたのは、電子ブックプレーヤーだった。中にはリーダーズ英和辞典、リーダーズ・プラス、和英中辞典(3点とも研究社)のCD-ROMが入っている。リーダーズは、最新の時事用語や専門書・小説などに出てくる単語を含む 27万語を収録。これは、他の辞書をはるかに上回る。リーダーズを補完する役目のリーダーズ・プラスを合わせると46万語となり、ふたつが、通訳者や翻訳者「御用達の辞書」として定評があるのもうなずける。「アイ・エス・エスではコースの初日に、『皆さん、リーダーズを持っていますか』と聞きます。持ってない生徒さんには、すぐに買うことを勧めます」

もちろん書籍版も出ているが、「通訳者は電子版」と榊原さん。 すぐに調べたい単語に飛んでくれる検索性が最大の魅力だ。軽くて小さく携帯に便利なところも、気に入っている。「紙の辞書しかなかったころは、勉強時間の半分は辞書を引くことに取られました。電子版が出てその手間が大幅に短縮されたので、勉強そのものに時間を当てることができるようになりました。電子版の威力は絶大です」
榊原さんが通訳の仕事を始めたのは今から13年前。これまで、建設、金融、通信、経済、会計、環境、医療分野の講演やセミナーの逐次通訳者として活躍してきた。今はお子さんが小さいこともあって、仕事量を制限。月1、2回の通訳の仕事とアイ・エス・エスで週に1度通訳準備科の授業を担当している。

英国航空のスチュワーデスを経て、通訳者を目指したのは30代に入ってから。スチュワーデス時代愛用していたのは、携帯版のコンサイス英和・和英辞典(三省堂)だ。英会話が中心だったので、それで十分事足りていたという。退職して通訳者養成用の学校に通い始めたころ、リーダーズの書籍版を購入。当時は電子版がなかったからだが、「線を引いてないぺージはないほど、リーダーズを引きまくった」という。通訳者として仕事を始めても、リーダーズとプログレッシブの和英中辞典(小学館)はどこに行くにも持ち歩いていた。本番で使うことはめったにないが、「そばにないと不安だった」のと、 「辞書を持参しない通訳者はクライアントに信頼されないと聞いていたから」というのが
理由だ。

だが電子版が出てからは、「もう紙の辞書には戻れない」と榊原さん。辞書持参でないとクライアントの信頼を得れないとはいっても、プロ がおおっぴら辞書を引くのはためらわれる。その点、電子版だと短い休憩時間や会場の片隅でもサッと引けるからだ。今では榊原さんは、3台の電子ブックプレーヤーを持っている。自宅の机の上に2台と、もう1台はバッグの中。常に機械の状態を点検して、いい方を携帯するようにしているという。リーダーズは、いわば英語の上級者が使う辞書。初級者や中級者向けにはどんな辞書がいいのだろうか。「引いた単語に線が引ける」、「一覧性がある」などの理由で「学習者には書籍版」との声は依然として根強い。が、それでも、榊原さんは電子辞書を推す。「電子辞書は簡単に引けるので、分からない単語が出てきたら引こうという気になります。電車の中でも引けますもの。単語が覚えられないといった批判もありますが、それは、引いた単語を自分のノートに書き留めないからです」

文字が大きい電子辞書


電子版の強みはそれだけではない。細かい文字がびっしり並んでいる紙の辞書と違い、文字が元々大きい上に、さらに拡大することもできる。「年配の学習者には、紙の辞書だと読むのが大変だと思いますけど、電子辞書だと楽ですよ」手軽に引ける電子辞書。だからといって分からない単語が出てくる度に引いていると、肝心の筋が追えなくなりがち。英語力をつけるには、英文を大量に読むことを主眼とする勉強と、分からない単語はすべて辞書で調べ精読する勉強を使い分けることを榊原さんは提案する。

「ペーパーバック、英字新聞、英語雑誌を読む場合、いちいち辞書を引くのではなく、文脈を追うことに集中した方がいいでしょう。それでも、同じ単語が何回か出てくれば頭に残ると思いますから、その時引いて、意味を確認すればいいのです。そして今度は、新聞や雑誌の中でひとつの記事を選び、その中に出てくる分からない単語はすべて調べます。何でもかんでも辞書を引いていたら疲れますから、ふたつのやり方を使い分けるといいと思います」精読する際、日本語に訳してみるのは効果的な勉強法だという。英文を読んだ時には理解できたつもりでいても、実際に訳してみるとあやふやな所があるのがよく分かるからだ。

通訳者の場合、いかに自然な日本語に訳出できるかどうかでその人の力が評価される。年々辞書は進化しているといっても、完全無欠な辞書はない。辞書に載っている語義を当てはめても、左の耳から右に聞き流せるような日本語にならないことは、学習者でもしょっちゅう経験する。そこをプロはどう乗り越えているのか。「授業で辞書からそのまま持ってきたような語義を当てはめた訳をする生徒さんには、『その訳は高校生ならマルをもらえますが、通訳者としてはダメです』とはっきり言います。辞書は、あくまでも、単語や表現のニュアンスについてヒントをもらうもの。引っかかっている単語が名詞形だったら、その動詞や形容詞を調べたりして、その単語のイメージをふくらませます。そして、文脈に合う自然な日本語が出てくるまで、かなり考えなくてはなりません。辞書は完ぺきだと考えるのは間違いです」

自宅でニュースの2カ国後放送を聞いていても、気がつくと頭の中で訳しているという榊原さん。電子辞書という強力な助っ人を得て、さらに活躍の場を広げたいと考えている。





「和英辞典の早期改訂は、急務です」

◆マーク・ピーターセンさん◆



近代日本文学を研究し、本や雑誌の原稿など、日本語の著作も多いマーク・ピーターセン教授。辞書との付きあいを尋ねると、「米国で日本語を勉強していたころは、研究社の新英和大辞典と新和英大辞典を使っていました。日本語を勉強する人の間で、このふたつを使わない人はいないぐらい当たり前のことです」英語の辞書がよりどりみどりの「辞書天国」日本では、様々な辞書を使い分ける。研究室の机の上には、上述の2冊に加えて、ランダムハウス英和大辞典(小学館)を常備。結局、大辞典でないと語義や用例の説明が不十分なことが多いので、この3冊は手放せないという。

デジタルの辞書も使う。パソコンでものを書く時は、 プログレッシブ英和・和英中辞典(小学館)、アメリカン・ヘリテイジ英英辞典(Houghton Mifflin Co.)、国語大辞典(小学館)などが収録されているBookshelfのCD-ROM版を使用。

オンラインの辞書では、Merriam-Webster OnLine (http://www.m _w.com/home.htm) とCAMBRIDGE DICTIONARIES ONLINE (http://dictio nary.cambridge.org/ )によくアクセス
するという。

そして、「いつも持ち歩いているのは…」と言いながらカバンの中から取り出したのは、セイコーの電子辞書だった。電子辞書は様々なメーカーから出ているが、セイコーを選んだのは、「リーダーズが入っている」ことが決め手となったという。「収録語数が多く、語義が現在使われているものに近い」ので、ピーターセン教授は学生にもリーダーズを勧めている。この電子辞書には、さらに、オックスフォード英英辞典や類語辞典も収録されているところも気に入っている。

日本の辞書の充実ぶりには「感謝している」と話すピーターセン教授だが、既存の辞書に対して注文はないのだろうか。「和英辞典の改訂が遅れています。新和英大辞典は和英辞典のなかで最も優れていますが、現在の第4版が出たのは1974年です。kutsu-migakiの項を引くと、「靴磨きの少年」として a shoeshine boyが出てきますが、何十年も前に日本から消えた風景が例文に使われているのは問題です」(研究社に問い合わせると、「現在改訂中で、数年以内に完成する」とのこと)

ふたつの言語に精通しているピーターセン教授から見た、辞書のより「賢い使い方」について尋ねると、「賢い使い方という意味自体分かりません。分からない単語が出てきたら、引く。それだけです」

それでも望ましい使い方はある。語義がいくつも並んでていても、太字か最初に出てくる語義しか暗記しない学生が多いが、「これでは単語を正しく理解することはできません。載っている語義や例文を最初から最後まで読むことが大事です」

そして、ある語義を当てはめても文脈に合わない時は、英英辞典で単語の意味を確認する。常に日本語を通してというのではなく、「英語を英語として理解しようとすることは、大きなプラスになる」という。





「中学生向けの辞書には、英語の本質が詰まっている」

◆澤井繁男さん◆



長年、京都の予備校で英語を教えている澤井繁男(さわい・しげお)さんは、「辞書の使い方を知らない学生が多い」と嘆く。だからといって、学生ばかりを責められない。元々使い方を指導されていないのだからとも指摘する。英語教育評論家として、『誰がこの国の英語をダメにしたか』などの著書がある澤井さんに、英語の基礎力を付ける辞書の使い方を教えて頂いた。
「こと英和に関する限り、日本には優れた辞書が多い」英語・イタリア語共に堪能で、ルネサンス文化の研究者としての著作も多い澤井さんは、こう話す。問題は、ご自慢の英語の辞書が宝の持ち腐れ状態になっていることだという。
「使おうとしない学生も多いし、辞書を引いても、どこをどう読んでそこから何をくみとればいいのかが分からない学生が多いんです。英語の辞書だけは立派なんですが、残念なことです」

そんな学生が増えたのは、教師が辞書の使い方を生徒に教えることができないからではないかと、澤井さんはみている。「娘がふたりいますが、中学の英語の授業で教師に辞書を引くよう奨励されたことはないようです。教師が教科書や巻末の単語リストや注釈、それに教師用の指導書に頼り切って、自ら辞書を使いこなしていないから、外国語学習における辞書の大切さを生徒に伝えられないのではないでしょうか」

注釈や教授資料への依存。澤井さんが最も懸念するのは、ある単語が文脈に合うようかなり意訳されているのに、それをその単語の本来の意味と誤解してしまうことだという。これでは、いつまでたっても単語の本来のイメージをつかむことはできない。 「英語力は、辞書を何回引くかということとある程度相関しています。辞書を引かないで、英語が血となり肉となることは期待できません」

では、「英語が血となり肉となる」ために、澤井さんが提案する辞書の使い方とはム。 「ある単語が分からなくて、辞書を引いたとします。語義が1から7まで並んでいたら、それを全部読んでその単語のイメージをくみとる訓練をするのです。例えば、developを引いたとします。皆さんがよく知っているのは『発達させる』という訳語でしょうが、病気を『発症する』という意味もあるし、写真を『現像する』という意味もあります。これらから、developには『現われる』というイメージがわきます。appear、emergeと同種の言葉だというのが分かりますが、
developの場合、ベクトルがプラスにもマイナスにも向かう。こうやって語感をつかむのです」

単語を引けば5回のうち1回ぐらいは、語義を最初から最後まで「読む」。そしてその単語の語感をつかむ。その後、英語の文脈に沿って日本語に訳出する。具体から抽象へ。抽象から具体へ。辞書は引いて覚えるだけのものではない。もちろん、語学の修得には丸暗記が必要な時期もあるが、辞書を読んで論理的思考を鍛えないことには、本当の語学力は身に付かないと澤井さんは言う。

抽象化と具体化についての話がひとしきり続いた後、澤井さんが「これはとてもいい辞書です」と言って取り出したのは、中学生向けのジュニア・アンカー英和辞典(学研)だった。

「別にこの辞書でなくてもいいのですが、言葉の本質を学ぶ上で、中学むけの辞書ほどいいものはありません。中学生にも分かるように書いてあるので、説明が簡潔で具体的です。もちろん、大人が使うにしても、素晴らしい辞書であることに変わりはありません」ためしにonを引いてみる。「物の表面に接触していることを示す語」であることが理解できるように、"on the wall" "on the street" "on the chair"のイラストが描かれている。さらに、overや aboveとの違いがイラスト付きで説明されている。高校で使用されている辞書は、この違いを文字でしか説明していないので、読まない人も多いという。その点、中学生向けの辞書は、図解入り、色刷り、見て楽しいレイアウトと、理解を助けようとする工夫が随所に施されている。こんな辞書を何度も引く。そうすれば、大人も英語を独習することができると澤井さんは言う。「これを徹底的に引いて、読む。後はこれの応用です。そしてもう1冊、専門用語や時事用語など語いが豊富な辞書を買えばいいのです」

愛着のある辞書を手放せず、いつまでたっても古い辞書を使い続ける人も多いが、「辞書は、新しければ新しいほどいい」と澤井さん。出版された時点で、すでに10年は古くなっている。最近出版された辞書ほど、現在使われている語義を収録している可能性が高いからだ。

和英辞典に関しては、英和辞典と併用して使うことを勧める。例えば、和英で「認める」と引いて、recognize、admit、acknowledge、confessと出てきても、各々のニュアンスの違いが分かりにくい。英和辞典でそれを確認しないことには、自分の意図する文にならない恐れもあるからだ。

辞書は徹底的に読む。「一冊の書物なのだから」と、澤井さんは結んだ。


ASAHI WEEKLY, March 31, 2002より